表現するということ(「進め!白鼻進」、「ペリリュー ─楽園のゲルニカ─」感想)

終戦記念日に関連して無料公開されていた「進め!白鼻進」と、「ペリリュー ─楽園のゲルニカ─」を読んだ。ペリリューの方は途中で公開期間が終わってしまったので、全巻購入して読み切った。進め!白鼻進も結局買った。

SNSで見かけて読んだのだが、どちらも戦時中の「漫画家を志す人」の話である。白鼻進は徴兵されず日本で終戦を迎えたが、ペリリューの田丸は戦争末期に徴兵されペリリュー島へ配備された兵士だ。

白鼻進のほうは短編で、ギャグのテンポで話が進む。のらくろをパクったぶちねこという漫画でどうにか成り上がろうと奔走し、実際に成り上がった男の話だ。冒頭で「僕っ、僕の漫画が読まれないのは、社会が悪い!僕の漫画があれば、争いもなくなり!傷つく子供も減り、つ、つまり、僕の漫画が読まれない世の中なんて、嫌だー!!」と叫んだ男は、見事に「僕の漫画が読まれる世の中」を作り出した。だが、最後に彼の眼の前には焼け野原がある。彼の漫画は、美しい。美しいものは人を変える。自分の表現を、言葉を、漫画の価値を、力を、どんな方向に向けてしまったのか。無自覚に振るわれた表現の力が、たくさんの誰かの人生を決定的に変えた。

なんだかとんでもないものを読んでしまった、と思った。読み終わって、自分の気持ちを上手く言語化できないでいる。色々な場面に、違和感のフックが仕掛けてあって、ジワジワと締め上げてくるような感覚がある。
別に、白鼻進に悪意はない。同時に、大義とか、そういうものも、言葉でしか分かっていない。売れるもの、読まれるものを嗅ぎ出し、作り出す能力に長けていて、それに躊躇しなかった。
白鼻進は終始、「自分の漫画なんてしょうもない、くだらない」という評価をしている。しょうもないから、パクリでもなんでもする。くだらないから、ギリ違法の宣伝行為だって(幼馴染にのせられる形ではあるが)好きに行う。自分の漫画なんて、価値がないから、時流に乗るためにどんなことでもする。同じく冒頭で、彼の婚約者である芹理あんは、「ちゃんと、向き合いなよ。漫画にも、私とか、周りの世界にも。」と告げている。おそらくラストシーンまで白鼻進はその言葉にすら向き合えていない。彼は自分自身(の才能)にも向き合っていなかったように見える。

同じように、たぶん、悪意はなく、倫理もなく、ただ「成り上がる」ことだけを目指しているような人は、現代では結構いるような気がする。成り上がれるかどうかは別として、その行為がどんな「空気」を作り出すのか、その結果社会や人々がどうなるのか、想像できない、しようともしないのではないかと感じる人が。
そういう人たち、白鼻進のように「現実のフィードバック」があったとき、ちゃんと呆然とできるんだろうか?とすら思う。


ペリリューはパラオのペリリュー島が舞台の、太平洋戦争末期の兵士たちを描いた作品だ。先述の通り、主人公の田丸一等兵は漫画家志望の青年で、これまでの戦闘経験はない。ペリリュー島のことも、美しい楽園のようだ、帰ったらここを舞台にした冒険漫画を描きたい……と、冒頭では呑気なことを考えている。

だが、ペリリュー島で戦闘が始まる。最初期の空襲で仲の良かった小山一等兵が、「慌てていて転び、頭を打って死亡」という、言ってしまえばしょうもない死因で亡くなる。小山は「父のように戦闘で勇猛果敢に死にたい」と言っていたのにもかかわらず、だ。その直後、田丸は第二小隊長、島田少尉に呼び出され、「功績係」に任命される。遺族へ、「最後の勇姿」を伝えるための手紙を書く必要があるが、島田はそういった話を「作る」のが苦手だ、漫画家志望なら話を作るのもお手の物だろう、と話す。つまり、田丸は小山の死因を創作することになる。勇猛果敢に敵に応戦し……と、見事な美談を作り出すが、そこで「小山の父の話も、現地の隊長が生み出した創作なのではないか?」と気づく。
徐々に日本軍が不利になるにつれ、「功績係」として死因を捏造する暇も無くなるが、田丸はそこからもひたすら絵を描き、狂気の戦場で正気を保とうとしていく。

絵柄は可愛らしく、人物は三頭身ほどで、田丸の顔はずっと(><)という感じだ。だが背景は緻密で、死亡描写も真正面から描かれる。頭を吹き飛ばされて、脳を露出させて死ぬ。手榴弾が炸裂し、まっ黒焦げになって死ぬ。死体にはハエが、カニがたかる。食料の乏しい状態ではそのカニを捕らえて食べるしかない。
本当に容赦ない描写が多い。さっきまで田丸がほがらかに話していた人物があっけなく死ぬ。アメリカ兵に殺されるだけではない。内輪揉めで仲間同士で殺す。玉砕のために情報を処分して自殺する。精神を病んで死ぬ。死にたくないから、閉じ込められた洞窟内で、死んだ仲間を食べる。軍部の命令に従って、全滅するしかないような作戦を指示する。敵味方の死体を漁って飢えを凌ぐ。余裕ができたら賭け事をして揉める。人間の、極限状態での様々な姿をまざまざと描いている。

作者の武田一義氏の、事実の取材と「フィクション」を織り交ぜて作品を作り上げる姿勢が凄まじい。一巻のあとがきにも描かれているが、当時のリアルな装備ではなく、あえて分かりやすいアイコンにしている部分も多い。だが、それでこの作品のインパクトが減ることはない(むしろ増えている部分も多い)。

また、おそらくこれも現実とフィクションを上手く組み合わせていると思うのだが、この作品は「作中の田丸の孫たちが、現代で年老いた田丸や史実を取材して描いた」ということが終盤で分かる(孫は編集者で、漫画家はまた別)。その取材の様子も、田丸が語ったことや語らなかったこと、他の人物の対応なども含めて、「表現すること」に徹底的に真摯に向き合っていると思える。これは白鼻進とは逆で、田丸やその孫が「表現」の力を理解し、いかに発揮すべきか(発揮すべきでないか)を分かっているからだ、と感じた。

個人的に、ペリリューの表紙が秀逸だなと思う。ずっと主人公の田丸&吉敷が軍服で映り込んでいるが、3巻、7巻、11巻の表紙はおそらく田丸や吉敷、他の登場人物の「夢」の描写だ。美しい桜の下での宴会。島の高いところへ掲げられた日の丸。美しい南方の海の中で、死んだ仲間たちと楽しく泳ぐ様子。絵柄が可愛らしく、これらの表紙が美しいからこそ、戦争の悲惨さがさらに強く感じられるという、「表現の妙」を感じた。


私は別に表現を仕事にしているわけではない。趣味でちょっとばかりイラストを描いたり、文章を書いたりするだけだ。それでも、その「表現をすること」の持つ力は意識しないといけないな、と思う。

正直、今の世の中に怒っているのはその部分が大きい。元々私は軍事系のフィクションが好きだ。軍服、式服を美しいと思う。でもそれは現実が平和で、実際には戦争や虐殺、差別を絶対に許さないという倫理のコードがあるから思いっきり楽しめるものだ。今は全然楽しめない。なぜなら、そのコードを理解していない、あるいは理解しないふりをして踏みにじる人間が多くいるからだ。ダサすぎるしバカすぎる。

フィクションや表現には現実を反映する面も、変える力もある。それを分かっている人を応援したい。

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